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執筆者の写真風爺

介護保険 その進化過程におけるよもやま話 No.2


(1) 措置制度から介護保険導入へ


■「介護保険」の導入


森藤 当時、措置制度の時代は、(まあ元は国民の税金なんだけど)お金を出すのは国だったんだよね。でも、そうして国からお金を出していたんでは、もう間に合わなくなってきた。そうして出てきたのが、国民に直接お金を出させようという介護保険という仕組みなんですよ。



藤田 なるほど。あ、こういう資料がありますよ。

当時の高齢者介護対策本部の事務局長をしていた人の話なんですが「1994(平成6)年、細川首相が打ち出した「国民福祉税構想(税率7%)」が頓挫したとき、社会保険方式しかないと思った」という。

 

森藤 そう、つまるところ国民に頼るしかないという、いくべきところにたどり着いたということですね(笑)。でもね。そうして国民に(保険という形であっても)お金を出してくださいと言っても、誰も快くは引き受けませんよね?

 

藤田 そりゃそうですねえ(笑)。

 

森藤 でもどうしてももう国はお金を出せない。だったらなんとかして国民にお金を出してほしい。とすればその前に、国民に、お金を出してもいいかな、という認識をもってもらわないといけない。どうすればいいか?そういうときに世界を見渡してみて、そこにあったのが「介護保険」という仕組みだったんですね。それならそれを持ってこよう、と。

 

藤田 はあああ。ということはその時点でもう、世界には介護保険という仕組みがあった?

 

森藤 あったんです。



 


2008年の法改正以降、ドイツの介護保険料は、通常は(賃金の)1.95%、子どもがいない23歳以上の被保険者は同2.2%になった。(日本のように(所得段階による振り分けはあるにせよ)全員一律というわけではない)

 

日本では、それを名付けて「介護保険」という名称にした、ということです。まあ、実際はこんな単純な話しではないでしょうけどね。


■障害者福祉の先見性


藤田 でもその前、介護保険が始まるまでは、「老人福祉法」(1963(昭和38)年公布)は「高齢者福祉対策」を、「老人保健法」(1982(昭和57)年公布)は「老人保健医療対策」を、それにもうひとつ「心身障害者対策基本法」(1970(昭和45)年公布)というのがあって、それが「障害者対策」を、という感じでそれぞれがそれぞれを担っていた、と。


言ってみれば、この3つ、ボーンボーンボーンって、福祉の3本立てって感じがするんですが(いわゆる福祉三法は、①児童福祉法②身体障害者福祉法③母子及び父子並びに寡婦福祉法、です)、中でも、1970(昭和45)年制定の「心身障害者対策基本法」がその第六条で「障害者は、その有する能力を活用することにより、進んで社会経済活動に参加するように努めなければならない」と言っていて、この「有する能力を活用する」っていうのが、無茶苦茶現代っぽいっていうか、今の「自立支援」という考え方にすごく沿っているような気がしているんですね。そこから今の「自立」の考えが出てくるんじゃないか、と。


で、いちばん最初の質問に戻るんですが(笑)、つまり福祉の3本立ての中で障害者福祉が一番進んでいたっていうか、そんな感じがするんですが、森藤部長はいかが思われます?

 

森藤 う~ん。たぶんね、老人福祉の方は、伝統的に家族が看ていたということがあって、それって言ってみれば、当たり前と言うか、年取ってくるんだから看なきゃいけないでしょう。だから老人の方は家族でよろしくということでしょう。言ってみれば老人の場合は障害者というよりも年を取って亡くなるまでのちょっと不自由な期間ぐらいの認識だったのではないかな。大変ではあったでしょうがね。


一方障害者っていうと、生まれつき障害を持って生まれた人もいるし、若くして障害を負った人もいて、そこから延々と人生が続くわけですね。それからずーっと一生その障害を背負って生きなきゃいけない。だとすればね、日本も文明国家だと言うのなら、そこはちゃんと国が面倒を看なきゃいけないというか、そこにスポットを当てて対策を考えなきゃいけない。そういうことになったのではないでしょうかねえ。

 

藤田 ということはあれですかねえ、障害者の場合は、家族が看るというクッションがなかった。だから初めからそこに国が介入する必要があった、ということですかねえ?

 

森藤 うーん。というか、障害者でも家族が看るというクッションはあったんだとは思うんですよ。でもそれをそのまま家族に丸投げで国は何もしなくていい、というスタンスが取れなくなってきたということではないでしょうか。

 

藤田 はあー、なるほど。

 

森藤 国は国で発展していくじゃないですか?繁栄して発展していく。でも障害者はそのままそこにいる。すると、欧米諸国から見たときに、あっちの国はその辺進んでいますからね、なんだ、高度成長とか、先進国、経済大国とかなんとか言っているけど、障害者はこのままなの?って。なんだ、って思われるでしょ?それじゃいかんと。

 

藤田 なるほどねえ。

それで障害者の福祉理論が老人の福祉理論なんかに比べて先行していった、と。そういうわけですね?

 

森藤 それと、ちょっとシビアな言い方かもしれないが、老人は先が短いんですよ。今更自立もないでしょ、と。でも障害者の方は親の方が先に亡くなっていく、と。やっぱりそのへんのニュアンスが違うんじゃないかな。老人と障害者では。

 

藤田 う~ん。なるほど。そのへんの感じ、ようやくなんとなくわかりました。



■介護保険前夜---措置時代の豊穣


藤田 とにかく特養が(1963年に)出来てから介護保険が始まる(2000年)まで、37年間もいわゆる「措置時代」が続いたわけですね。


最初にも言いましたが、わたしはその頃のことをあまり(というかほとんど)知りません。

最後にその措置時代の特養についていえば、どのような状況だったのでしょうか?

 

森藤 措置制度の時代の特養は現在の介護保険下の特養と運営面での大きな相違があり、それは①入居者は施設を選べない、②施設に空きができたら行政が入居者を連れてきてくれるので施設側は入居者を探す努力をしなくていい、③施設は各自治体の予算(措置費)で賄われているので仮に経営的に赤字になってもそれで倒産してしまうというような心配をしなくてもいい、④施設側は行政の指導に沿った、法で決められたサービスをやっていればとりあえず良しとされる、などなど、これはもう、行政におんぶに抱っこ状態ということですね。


それに、施設の中の様子はなかなか外部に明らかにされにくいのでちょっとしたブラックボックス状態になっている、といったところもありました。

 

藤田 いやあ(笑)。そう聞くと、今の介護保険下の施設とはかなり状況が違っていたんですね(笑)。

 

森藤 決定的な違いは、措置制度下の特養は弱者救済のためのものでその利用者は、社会的落ちこぼれ層に限られていたのに対して、介護保険下の利用者は基本的には社会的弱者(貧乏人)・強者(お金持ち)問わず要介護状態になったら誰でも利用できる、というところでしょうね。でもね、実はこの時代には介護に対する意識レベルが結構高い介護職員も多かったんですよ。

 

藤田 え?ほんとですか?

 

森藤 措置制度時代の介護職員って、女性がほとんどで、男性はほとんどいなかったんですよ。なにしろ介護職員のことを寮母といっていたぐらいですから。わたしが以前いたある施設には、広島県で初めて男性介護職員になったという人がいました。そのように聞いたように記憶していますが。間違っていたらすみません。とにかくそれが納得できるくらい、その頃はもう、施設で働く介護職員はほとんど全員が女性でした。しかも結婚前の女性が多かった。結婚すると夜勤などのシフト勤務に入るのはなかなか難しくてだいたい退職するのが普通でしたので。

 

藤田 ええー!本当ですか?すごいですねえ(笑)。

 

森藤 どういう意味ですか(笑)。


ともかく、この時代の介護職員にはプロフェッショナルな意識の高い人も多かった。「誇り」をもって仕事をしていましたよ。例えば、その施設の介護職員達には、お年寄りの身体に触れて介護を行ういわゆる直接処遇については介護職や看護職、生活指導員(今は職名が生活相談員に変わっていますが)など直接処遇職員以外の職員(例えば事務職など)には絶対手を出させない、という不文律がありました。


事務員などが誘導でお年寄りの手など引こうものなら、すぐに介護職員が飛んできて、「あぶないです。私が代わります」と言われたものです。彼らには「自分たちのやっている介護は素人介護とは違うんです」というプライドがあったのです。

 

藤田 へえー。そうなんですか?それは意外ですねえ。想像ではその時代は、チューインガム噛みながら仕事するような、いい加減な介護職員ばかりだと思っていました(笑)。(失礼!)

 

森藤 まあ、世間的にはそういう人達がいたことも否定はしませんがね。でも当時の介護職員の名誉のために、もうひとつ介護職員の気概についてお話ししましょう。


当時は特養の入居者を連れて温泉一泊旅行というのをやっていました。年に一度くらいですがね。じつはこれがものすごく大変なんです。まあ想像してみてください。今でいう要介護4だの5だのの入居者、さすがにまあ寝たきりのような方は行きませんでしたがね、それでも車椅子生活者や認知症の方など20名くらいを連れて温泉宿に一泊するんですよ。


身体に障害のあるお年寄りを設備が不十分な温泉に入らせたり、夜の宴会のときなんか介助などに忙しくて職員は自分が食べる時間なんてありません。夜は寝ずの番で職員はほとんど睡眠などとれない状態でした。そういう大変な一泊旅行ですが、また次の年のその時期になったら「今年もやります」と熱い思いをたぎらせている介護職員も多くいました。今特養でこのような行事を行っている施設はほとんどないんではないでしょうかね。どこか知っています?

 

藤田 それは驚きですねえ。いやああ(しきりに頭を振る(笑))

 

森藤 ですから一概に措置時代の介護はチューインガムレベルとは言えないですねえ(笑)。今、制度は整い、施設・設備は立派になりました。次は魂を入れないとね。

 

藤田 はああ。そうですよねえ。面白いお話です。たぶんその頃と今とでは、利用者の数、施設の数がぜんぜん違うんじゃないでしょうか。だから当然介護職員の数も違う。介護の質も異なる、ということかもしれません。詳しい数字を出してみたいですねえ。


(次回に続く)


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